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今回は江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜公について語っていこうと思います!
歴史の教科書では幕末に登場しますが
「大政奉還を行い江戸幕府を終わらせた人物」
ほどしか記載されていませんよね。
しかし日本のために尽力された人物ですので日本人としてはしっかりと知っておきたい方なのです。
この記事を読むと
✔️徳川慶喜の概要
✔️徳川慶喜が何をしたか
✔️大政奉還をした理由
✔️晩年の様子
などが分かりますので、ぜひ最後までご覧ください!

一緒に見ていきましょう!
徳川慶喜の概要
徳川慶喜は江戸幕府15代将軍であり、日本で最後の将軍です。
ざっくりと概要を表にしてみました。
スマホの方はスクロールできます。
幕府 | 江戸幕府第15代征夷大将軍(在任1867-1868) |
生誕 | 1837(天保8)年9月29日 |
死没 | 1913(大正2)年11月22日 |
改名 | 七郎麻呂(幼名)→松平昭致→一橋慶喜→徳川慶喜 |
父 | 徳川斉昭(水戸藩第9代藩主) |
母 | 登美宮吉子 |
氏族 | 徳川氏(水戸家→一橋家→将軍家→慶喜家) |
兄弟姉妹 | 合計13名 徳川慶篤、池田慶徳、松平直侯、池田茂政、松平武聰、徳川昭武、 喜連川 縄氏、松平昭訓、徳川貞子、松平忠和、土屋挙直、松平喜徳、松平頼之 |
妻 | 正室:一条美賀子 側室:一色須賀、新村信、中根幸 外妾:お芳 |
子 | 正室、一条美賀子との子はなく 側室、新村信との子は5男5女。 同じく側室、中根幸との子は5男6女おり 全員で10男11女。(下記家系図参照) |
墓所 | 谷中霊園 |


慶喜公は実に子沢山ですね。慶喜公の父徳川斉昭公も子沢山だったのでなんだか血を受け継いでいる感じがしますね。。
どのような幼少期を過ごしたの?

水戸藩主、徳川斉昭の7男として江戸で生まれます。
斉昭は慶喜の素質を早くから見抜き、水戸2代藩主の徳川光圀の教育方針通りに華美な江戸ではなく地元の水戸で学問と武術を徹底的に学ばせました。
斉昭は優秀な七郎麻呂を他家の養子にせず、長男・徳川慶篤の控えとして手元に置いておこうと考えていました。
この間、七郎麻呂は父斉昭から偏諱を賜い、松平昭致と名乗ります。
「偏諱を賜う」とは
将軍や大名が、功績のあった家臣や元服する者に自分の名の一字を与えること。
武芸の中では特に「手裏剣」に熱中していたそうで、大政奉還後も手裏剣の稽古を怠らず、手裏剣名人として名が高かったそうです。
御三卿・一橋家を継ぐ
約9年間に渡り、水戸で文武に励みましたが慶喜の優秀さは江戸まで伝わっており
1847(弘化4)年、12代将軍・徳川家慶老中の阿部正弘が水戸に伝え、水戸藩はこれを受け入れ慶喜は一橋家を継ぐことになりました。
この時に昭致は、将軍 徳川家慶より偏諱を賜い「徳川慶喜」と名乗ります。
慶喜が一橋家を継いだのは、9歳の時でした。
将軍に就任するまで
将軍継嗣問題に巻き込まれる
1853(嘉永6)年のペリー来航で日本が動揺するなか、将軍家慶が没すると慶喜は将軍候補へ浮上します。
しかし慶喜を推す阿部正弘や薩摩藩主の島津斉彬
「安政の大獄」で処分を受ける
1858(安政5)年、老中の井伊直弼
「将軍後見職」を引き受ける
1860(安政7)年、「桜田門外の変
1862(文久2)年、慶喜は第14将軍家茂を補佐する「将軍後見職
文久の改革で
慶喜と松平春嶽は「京都守護職の設置」、「参勤交代の緩和」などを行いました。
「禁裏御守衛総督」に就任

1864(元治元)年3月、慶喜は将軍後見職を辞任し、「禁裏御守衛総督
禁裏御守衛総督とは
朝廷が幕府の了解のもと、禁裏(京都)を警護するために設置した役職のこと。
京都守護職の松平容保
「禁門の変」で長州藩を追い払う
1864(元治元)年7月、「禁門の変
禁門の変とは

1864(元治元)年8月20日に京都で起きた、幕府軍と長州藩の武力衝突事件のこと。
前年1863(文久3)年に起きた八月十八日の政変により京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件。
「蛤御門の変
この名称は京都御所の門(禁門と呼ばれる)を中心に戦われ、中でも蛤御門周辺が最も激戦地であったことによって名付けられました。
※蛤御門は現在の「京都御苑」の西側に位置し、今も門の梁には当時の弾丸の痕が残っています。
この時慶喜は、「歴代の徳川将軍の中で唯一、戦果の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。」と伝えられています。
禁門の変の後に、長州藩は「朝敵
しかし長州は薩摩と「薩長同盟」を結び政治的復権を狙うなどしたことから、その後も幕府内では「長州処分問題」が中心的な問題となっていました。
第15代将軍職を引き受ける

1866(慶応2)年に将軍家茂が急逝すると、慶喜は再度将軍候補となり、固辞するも15代将軍を引き受けます。
この頃の慶喜ははっきりと開国を口にするようになり、将軍就任の受諾は開国体制へ本格的に移行することを視野に入れてのものでした。
将軍就任後は慶喜はフランスからの援助を受けて製鉄・造船所を設立するなど、フランス式の軍事改革を行います。
また実弟である徳川昭武
大政奉還と王政復古の大号令
「大政奉還」をした理由
1867(慶応3)年、慶喜は薩摩藩・長州藩の討幕運動に危機を感じ「政権を一度朝廷に返した後、新政府に入って執政することが得策」と考え、前土佐藩主の山内豊信の勧めのもと「大政奉還
1867(慶応3)年10月14日に慶喜は、大政返上上表を明治天皇に奏上し、翌日勅許され大政奉還はなされました。
王政復古の大号令
しかし大政奉還をされたとて、朝廷には政治を動かす実力がないため、状況が落ち着くまでは慶喜の政権が維持されたままとなりました。
朝廷内で慶喜に与えられる地位についても、慶喜と関係性が深く、朝廷内の実権を握っている関白「二条斉敬
しかし薩摩・長州藩は朝廷でクーデターを起こし慶喜を政権から締め出し、新政府の樹立を宣言しました。
このことを「王政復古の大号令」といいます。
戊辰戦争へ突入
慶喜を擁する旧幕府側は後に引けなくなり、1868年(慶応4、明治元)年1月、大阪から京都に兵を進め「鳥羽伏見の戦い」を勃発させます。
しかし戦況不利と見た慶喜は早々と負けを認め「軍艦開陽丸」で江戸へと逃れてしまいました。
新政府軍は慶喜を「朝敵(朝廷の敵)」とし東征軍を発足しましたが、慶喜は抗戦派を鎮めた上で、事態収集を「勝海舟」に託しました。
勝海舟と東征軍の西郷隆盛は交渉し、江戸城は「無血開城
最後まで戦わず江戸へ引き返した理由
鳥羽伏見の戦いで慶喜は勢力がまだ残っていたにもかかわらず退却をしましたが、慶喜は元来、朝廷と密接な関係を保つ政権を目指しており、将軍在職中は畿内で執務し、幕臣は京へ呼び寄せていました。
しかし天皇の権威が薩摩と長州へと移った時点で、慶喜の戦意はほぼ喪失していたのではないかと考えられています。

つまり、自身が朝敵になることを避けたかったということなのですが、慶喜がそう思ったことは納得できます。
なぜなら慶喜の父、徳川斉昭は尊王攘夷という思想(後期水戸学)を推し進めた人物なので
慶喜自身も天皇を大切に思っていたに違いありませんよね。。母も皇族出身ですし。
大変重んじていた天皇から朝敵とされてしまって戦意を喪失したのは頷ける気がします。
しかし、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が掲げた「錦の御旗」は岩倉具視と西郷隆盛が作り上げた偽物だったといわれています。。😭
静岡での謹慎生活
その後慶喜は
- 上野の寛永寺
- 水戸(茨城県)
- 駿府(静岡県)
へと移り謹慎生活を送ることとなります。
戊辰戦争後に謹慎は解けましたが、引き続き静岡で趣味に没頭しながら静かに過ごしました。
東京に移り晩年を過ごす

1897(明治30)年に東京の巣鴨に移り、後に「明治天皇」へ拝謁を果たしています。
1902(明治35)年には貴族院に就いて、政治の世界へ入りますが
1910(明治43)年には家督を息子の慶久に譲り、貴族院を辞職。
1913(大正2)年11月22日、急性肺炎にかかり77歳でその生涯を終えました。
渋沢栄一との関係性について

実業家の渋沢栄一は、幕末に徳川慶喜に仕えていた家臣である「平岡円四郎
それは慶喜が将軍になる前の、一橋家の当主だった時代です。
渋沢栄一は徳川慶喜に大変恩義を感じており、明治維新後に慶喜が静岡で謹慎生活を送っている際もたびたび静岡を訪れ、慶喜の様子を伺っていました。
他の旧幕臣との面会を固辞していた慶喜も、栄一と面会することは楽しみにしていたようです。
明治20年代になり、世の中が少し落ち着き出してきた頃、渋沢栄一は徳川慶喜の名誉を回復するために「慶喜公の自叙伝」の作成に奔走します。
栄一が何度も慶喜にインタビューを行い作り上げた自叙伝は「昔夢会筆記
少々お値段がはる書籍ですが気になる方はぜひ手に取ってみてください。
どのような人物だった?
静岡隠居時代には
- 写真
- 囲碁
- 謡曲
- 狩猟
- 投網
- 絵画
などの趣味に没頭していたそうです。
穏やかな人柄で「けいき様」と呼ばれ親しまれていました。
東京へ移り住んでからは
- 自転車でサイクリングを楽しんだり(銀座へよく買い物にでかけた)
- 自宅にいち早く電話を引いたり
- お土産でもらったアイスクリーム製造機で自宅でアイスクリーム作りを楽しんだり
- 蓄音機でレコード鑑賞をしたり
- 1912(大正元)年には自動車を入手しドライブを楽しんだり(1911(明治44)年の段階で東京で自動車を個人所有している者はまだ150余人に過ぎなかったそう。)
などと新しいものが大変お好きだったようです。
墓所は谷中霊園

©︎お城ちゃん
徳川慶喜公の墓所は東京上野の谷中霊園にあります。
渋沢栄一とその家族も同じく谷中霊園に眠っています。
まとめ
いかがでしたか?
徳川慶喜公の人生がお分かりいただけたのではないでしょうか?
あらためて慶喜の概要はこんな感じです。
幕府 | 江戸幕府第15代征夷大将軍(在任1867-1868) |
生誕 | 1837(天保8)年9月29日 |
死没 | 1913(大正2)年11月22日 |
改名 | 七郎麻呂(幼名)→松平昭致 |
父 | 徳川斉昭 |
母 | 登美宮吉子 |
氏族 | 徳川氏(水戸家→一橋家→将軍家→慶喜家) |
兄弟姉妹 | 合計13名 徳川慶篤 喜連川 縄氏 |
妻 | 正室:一条美賀子 側室:一色須賀、新村信 外妾:お芳 |
子 | 正室、一条美賀子との子はなく 側室、新村信との子は5男5女。 同じく側室、中根幸との子は5男6女おり 全員で10男11女。(下記家系図参照) |
墓所 | 谷中霊園 |
大政奉還をした理由は?
薩摩藩・長州藩の討幕運動に危機を感じ政権をいちど朝廷に返した後、新政府に入って執政することが得策と考えたため。
晩年はどうすごしたか?
写真、囲碁、謡曲、狩猟、投網、絵画などの趣味に没頭し、穏やかな人柄で「けいき様」と呼ばれ親しまれていました。
徳川慶喜の人生は凄まじい人生だったと思われます。
当時は「逃げた将軍」とか「徳川を終わらせた」などさんざん汚名を被せられましたが、日本に尽力したことから現在は再評価されており日本人なら絶対に知っておきたい人物ですね。

最後まで読んでくださりありがとうございました!
次の記事でまたお会いしましょう😊