歴史

【徳川四天王】には誰がいる?何をした?徳川家康公の優秀な家臣たちをご紹介(前編)

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この記事では徳川家康を支えていた優秀な家臣たちをご紹介していきます。

他の戦国武将と徳川家康が大きく違っていたところってどこだと思いますか?

私は"優秀な家臣がいたこと、それもひとりではなく家臣の層がかなり厚かったこと"

だと考えています!

家康公の生き方を知ることも大変勉強になりますが

彼に仕えた家臣たちを知ることもとても学びが多いので

今回の記事ではそのことをお伝えできたらなと思っています。

また彼らの子孫が江戸幕府を支えていたといっても過言ではありません。

江戸時代の政治の仕組みや人材登用について深く理解できる知識にもなりますよ。

この記事を読むと

徳川家康に仕えた徳川四天王について

わかります。

なお、こちらの記事は全3部作となっております。

他にも「徳川十六神将」と「徳川二十四将」についての記事も書いておりますので

そちらもあわせて読んでいただけたら幸いです。

お城ちゃん

家康公の家臣24名を1記事で書いたらものすごいボリュームになってしまったので3記事に分けさせていただきました。

何卒ご了承くださいませ。

徳川家の家臣たち

徳川家の家臣たちには優秀な人材が多くいました。

日本を統一した徳川家なので多くの家臣がいるのはもちろんのことですが、

ここでは徳川家康に長く支えた「徳川四天王」についてご紹介して行きます。

徳川四天王とは?

徳川家康の側近として仕え、江戸幕府の樹立に大いに貢献した4名の武将のことです。

武田四天王と同じように名付けられましたが、元々は仏教の四天王に準えています。

徳川四天王に選ばれた4人の武将

酒井忠次

酒井忠次

1527-1596。享年70歳(病死)。三河国(愛知県)出身。

徳川四天王として最後まで家康に仕えた人物として知られています。

松平家(徳川家の前身)の家臣、酒井忠親ただちかの次男として誕生。

徳川家康が今川義元のところに人質として赴いた時から家康に仕えています。

桶狭間の戦い後に家康が今川氏から独立して以来、忠次は重臣として用いられています。

姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど、家康の主な戦いには全て参加しています。

特に長篠の戦いでの武功は華々しく、同盟を結んでいた織田信長に

「忠次は背中に目がある」と言わせるほどでした。

(武田勝頼のいた鳶ヶ巣砦とびがすとりでを背後から急襲して攻略し、長篠城の危機を救いました。)

1579年、家康の嫡男、徳川信康が織田信長から"武田に内通している"との嫌疑をかけられた時に、

信長に対して忠次は信康を弁護することができず、信康を自害に至らしめたという汚点を残してしまいます。

しかしそれ以降も「徳川四天王」の第一の重臣として働き、

家康が関東に移封されたときは、子の酒井家次には下総国(千葉県)3万石が与えられました。

本田忠勝

本田忠勝

1548-1610。享年63歳(病死)。三河国(愛知県)出身。

徳川四天王の中では随一の勇将、猛将として知られており数々の武勲をあげました。

忠勝の単騎駆けで突破口を開いた姉川の戦いでは、同盟者として共に戦った織田信長に「日本の張飛(中国三国志の武に優れた英雄)」と称されました。

殿しんがり(最後の部隊)として奮戦した一言坂ひとことざかの戦いでは、敵軍の武田氏から「家康の過ぎたるもの」と称されました。

さらに羽柴秀吉と戦った小牧・長久手の戦いでは、秀吉に「東国一の勇士」と言わしめました。

関ヶ原の戦いでは本軍として家康とともに戦うと同時に

敵の石田三成と対立する諸大名を東軍に引き入れることにも尽力しています。

この功績により伊勢国(三重県)桑名藩10万石に移されました。

ただし、江戸幕府成立後の政治において

忠勝ら武功派は遠ざけられたため、晩年は隠居し63歳で病死しました。

余談ですが

本田忠勝が使用していた槍は”止まったトンボが真っ二つになった”ことから

蜻蛉切とんぼきり」と名付けられ、天下三名槍の一つとされています。

長さはなんと6mもあったとか。(通常は4.5mほど)

井伊直政

井伊直政

1561-1602。享年42歳(病死)。遠江国(静岡県)出身。

武功と内政手腕を持ち合わせた猛将として知られています。

井伊直政の部隊の軍装は赤で統一されており

井伊の赤備えいいのあかぞなえ」と呼ばれていました。

秀吉とたたかった小牧・長久手の戦いでは直政が先陣となり

赤備えを率いて奮戦し「戦国屈指の精鋭部隊」として戦場で恐れられていました。

この井伊の赤備えは幕末まで続きました。

関ヶ原の戦いでは、本田忠勝とともに東の軍監(軍の監督)となり先鋒としても活躍しました。

これは先鋒を任されていた福島正則を出し抜くためでもありました。

しかしこの後直政は島津氏の追撃途中で落馬してしまいます。

戦後の直政は政治と外交に手腕を発揮しました。

江戸幕府の組織づくり、西軍の総大将であった毛利氏との講和、謝罪した長宗我部氏との交渉などを行いました。

家康は文武両面で直政を信頼していたと言われています。

そのため直政は近江国佐和山(滋賀県)18万石を与えられましたが、

関ヶ原での傷が原因で破傷風にかかり、江戸幕府成立の2年後に息を引き取りました。

赤備えについて詳しく知りたい方は下記の記事も見てみてください。

【井伊の赤備え】って井伊直政が山県昌景から引き継いだってホント?

【AD】広告を含みます。 この記事では「井伊の赤備あかぞなえ」について解説していきます。 赤備えとは朱色(赤色)に塗られた甲冑などの軍装のことをいいます。 井伊の赤備えとは 徳川家康の家臣だった井伊直 ...

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榊原康政

榊原康政

1548-1606。享年59歳(病死)。三河国(愛知県)出身。

榊原康政は幼少期に家康に見出され天下取りを支えました。

三河一向一揆での功により、家康から「康」の一字を賜り19歳で元服します。

以後康政も徳川四天王の1人として重用され、

主たる家康の戦いにはすべて従軍し武功をあげています。

特に羽柴秀吉と戦った小牧・長久手の戦いでは、秀吉の甥である秀次軍に大勝しました。

またこの戦いの最中に

「秀吉は低い身分の出身であるのに織田家を乗っ取ろうとしている」とし

それを非難する檄文げきぶんを各地の大名宛に飛ばしました。

反秀吉派を作るための策でありましたが、これに激怒した秀吉は激怒し

康政の首に10万石の懸賞金を掛けました。

しかし康政の奮戦はそれを寄せ付けることをせず、戦いは講和となりました。

関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍監として従軍しました。

戦後は老中になりますが、武功派家臣の立場であったため

本田忠勝と同じく政治実務からは遠ざけられます。

その代わり、江戸に参勤しやすい館林城(群馬県)の城主として暮らし

59歳でこの世を去りました。

まとめ

今回の記事は以上になります。

徳川四天王について

詳しく知れたのではないかと思います。

徳川十六神将と徳川二十四将の記事もぜひあわせて見てみてください。

徳川家康が関連した映画のレビューやその他の記事もぜひ読んでいただけたら嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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