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戦国時代に関東を広く支配していた
「北条五代」「後北条氏」「小田原北条氏」ってご存知ですか?
- なんとなくはわかるけど詳しく知らない方
- 関東+北条=鎌倉時代の北条政子の血筋かな?
と思っている方はぜひこちらの記事を読んで
「小田原を中心に関東を支配していた北条氏」について詳しく知っていただけたらと思います。
この記事を読むと
北条五代がそのような一族だったか
北条政子との関係性
がわかります。
「北条五代」「後北条氏」「小田原北条氏」は同じ北条氏を指しますが
この記事では「北条五代」「後北条氏」を使用させていだだきます。
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北条五代とは?
戦国時代に約90年に渡って小田原城(現在の神奈川県小田原市にあったお城)を居城に
関東一円
(伊豆・相模・駿河・武蔵・下総・上総の北部・常陸の一部・上野の一部・下野の一部)
(現在の神奈川県・静岡県の一部・埼玉県・東京都・千葉県・茨城県の一部・群馬県の一部・栃木県の一部)
を支配しており、最大事240万石を有していた大大名です。
歴代当主は5人いて「北条五代」と呼ばれています。
後北条家の家紋は「北条鱗」です。
初代:北条早雲(伊勢宗瑞・伊勢盛時)
後北条氏の創始者は「北条早雲」(1432-1519)です。
備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた「備中伊勢氏」の出身で「伊勢宗瑞」「伊勢盛時」と名乗り室町幕府に仕官していました。
1487(長享元)年以降は駿河(静岡県)の今川氏に仕えていたといわれています。
1493(明応2)年、室町幕府第8代将軍の足利義政の甥の茶々丸を「堀越御所」から追い出し伊豆へ進出します。
「韮山城」を居城にし、伊豆一国を治める大名となった早雲は
1495(明応4)年に相模小田原へ進出し、相模一国を平定します。
相模国を治めると検知を行い「貫高制」を用います。
税を減らし農民の負担を軽減しました。
- 「貫高制」→税を銭で換算し徴収する制度のこと。
- 「石高制」→税を玄米で換算し徴収する制度のこと。
さらに「分国法」の原型となる家宝「早雲寺殿廿一箇条」を伝えたといわれています。
「分国法」→戦国時代の大名が自身の領土内で制定した法律のようなもの。
北条早雲という人物が現れたことが戦国時代の始まりであるともいわれています。
2代目:北条氏綱
2代目当主は早雲の嫡男「北条氏綱」(1487-1541)です。
早雲の没後、関東を制覇するため居城を「伊豆韮山城」から「小田原城」へと移しました。
「伊勢」から「北条」へと改性し、「虎朱印状」を創出したりと北条氏の基盤を固めた人物です。
江戸城や河越城を奪取し、領土を「武蔵」・「駿河」・「下総」に拡大しました。
虎朱印状とは?
北条家の家印である、「虎の朱印」が捺された書状のこと。
3代目:北条氏康
3代目当主は氏綱の嫡男「北条氏康」(1515-1571)です。
氏綱の没後に家督を継承しました。
大規模な検地、税制改革、家臣の軍役の役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えました。
1546(天文15)年におきた「河越合戦」では
河越城が上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍8万に包囲されましたが
8,000の援軍を率いた氏康は夜襲に成功し大勝利に導き氏康の名を有名にしました。
この戦いに勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、北関東の「上野」まで支配を広げました。
4代目:北条氏政
4代目当主は氏康の次男「北条氏政」(1538-1590)です。
1560(永禄3)年、氏康の存命中に家督を継承しました。
1561(永禄4)年の上杉謙信、
1569(永禄12)年の武田信玄の小田原攻めを退けました。
徳川家・伊達家との関係を構築し、氏政の時に後北条氏の領地は最大になりました。
氏直に家督を継承した後も、後北条氏の最高権力者として君臨し続けましたが
1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原攻めに降伏し切腹しています。
5代目:北条氏直
5代目当主は氏政の次男「北条氏直」(1562-1591)です。
1580(天正8)年、氏政の存命中に家督を継承しました。
1582(天正10)年に武田氏が滅亡、ついで織田信長が本能寺の変で亡くなり「上野」「下野」へ積極的に兵を出し、支配域を広げます。
1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原攻めを迎え撃ちます。
氏直は領国内に動員令をかけ、懸命に抗戦しますが、全国から集まった精鋭揃いの20万の大軍を前にし降伏します。
降伏後、切腹は許されたものの高野山へ追放になり、翌年病死してしまいました。
こうして後北条氏の約90年にわたる関東支配は終わりを告げました。
北条政子との関係は?
「北条」ときくと、
鎌倉時代に執権という地位に付き政治の実権を握っていた「北条氏」を思い浮かべる方も多いのではないかと思います。
学校の教科書で「北条時宗」や、源頼朝の妻だった「北条政子」の名前を習いますよね。
その北条氏と後北条氏の家系ですが、「同じ一族ではない」といわれています。
混同を避ける為、鎌倉時代の北条氏は「執権北条氏」や「鎌倉北条氏」と呼ばれています。
なぜ「伊勢」から「北条」に改姓したの?
後北条氏、初代当主は「伊勢宗瑞」を名乗っていましたが
2代目の氏綱の代で「伊勢」から「北条」へと姓を変えています。
それはなぜかというと
伊勢から北条に改姓したわけ
伊勢氏は元々関東を支配していた上杉氏らから「他国からの侵略者」とみなされていました。
それまで相模の守護だった「扇谷上杉氏」にかわる「相模の国主だ」という正当性を得るために
かつて鎌倉幕府を支配していた執権北条氏の名前を継承したと考えられています。
ちなみにこの際に家紋も
執権北条氏の家紋「三つ鱗」に似せたものにしています。
三つ鱗と北条鱗の家紋はとてもよく似ていますよね。
こうすることで後北条氏の権威性が増し、関東での領土支配をしやすくしていったと考えられています。
後北条氏のその後
5代目当主の氏直は早逝し後継がいませんでした。
そのため叔父である「北条氏規」が北条家の家督を受け継ぎ、「河内国狭山」にて7000石を拝領しました。
そして氏規の嫡子である氏盛は江戸時代に譜代大名として「河内狭山藩主」となり明治維新まで続きます。
明治時代に後北条家は華族となり「子爵」という位を受けました。
子爵とは?
①公爵→②侯爵→③伯爵に次ぐ「第4位の位」で男爵の上位になります。
「小田原北条五代祭り」と「大河ドラマ」
後北条氏は内政面に非常に優れた大名としても知られており、
早くから
- 兵農分離を行う
- 日本史上最も税率を低くする
- 大規模な検知を行った
など、その地域に住む人々を大切にし、慕われ、安定した領国運営を実現していたといわれています。
現在では北条五代を偲び「小田原北條五代祭り」が毎年5月3日に小田原市内中心部で行われています。
(コロナの影響でスケジュールは変更されている可能性があります。)
さらに
現在小田原市では「北条五代を大河ドラマの主人公にしよう!」とオンライン署名運動を行っています。
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/signature.html
実現できたらとても面白いドラマが見られそうですよね。
現在まで地元の方々に愛されている後北条家、素晴らしいなと思いました。
もっと北条五代について知りたいと思った方は、後北条家の居城であった「小田原城」にもぜひ登城してみてください!
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
2022年にNHKで放送された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にて、女優の小池栄子さんが北条政子を熱演していました。
「日本三大悪女」のひとりといわれる北条政子ですが
鎌倉殿の13人を見ていくと慈悲深い人物として描かれており、御家人に頼りにされていたことがわかります。
大河ドラマから歴史を楽しく学ぶことができますので、北条政子についてさらに詳しく知りたい方はぜひ鎌倉殿の13人を見てみてください。
さらに、U-NEXTのNHKオンデマンドでは今までの大河ドラマを見ることができます。
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おわりに
いかがでしたか?
北条五代がそのような一族だったか
北条政子との関係性
はお分かりいただけたでしょうか?
まとめると、
- 室町幕府に仕官していた「北条早雲」が伊豆に進出し相模国を平定
- 5代にわたり領土を広げ関東一円を支配するが豊臣秀吉によって滅ぼされる
- 鎌倉時代の執権北条氏と戦国時代の後北条氏に血縁関係はない
となります。
これからも日本史をできるだけわかりやすくご紹介しますので、いっしょにたのしく学んでいきましょう!
最後まで読んでくださりありがとうございました😊