歴史

【渋沢栄一】って何をした人?日本資本主義の父、新一万円札の顔を簡単に解説(前編)

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日本資本主義の父と呼ばれている渋沢栄一をご存じですか?

名前を聞いたことはあるけど

実際どのようなことをした人なんだろう?

と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

この記事では渋沢栄一がどのようなことを成し遂げたのかわかりやすく解説していきます。

この記事を読めば

渋沢栄一が何を成し遂げた人物なのか
渋沢栄一の前半生

がわかりますのでぜひ最後までご覧ください。

お城ちゃん

こちらの記事は前編です。
後編とあわせて読んでみてください!

【渋沢栄一】とは何をした人?日本資本主義の父、新一万円札の顔を簡単に解説(後編)

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埼玉県深谷市の農民の出自

渋沢栄一 銅像

渋沢栄一は、武蔵国むさしのくに榛沢郡はんざわごおり血洗島村ちあらいじまむら(現在の埼玉県深谷市)です。

1840(天保11)年、渋沢市郎右衛門いちろうえもんゑいえいの長男として生まれました。

真面目で情に厚く、村の人からの信頼を集める父と

自ら進んで貧しい人たちに施しをするような慈悲深い母に育てられました。

渋沢家は養蚕ようさん藍玉あいだまの製造販売などを幅広く手がける裕福な豪農でした。

普通の農家とは違い、原料の仕入れから製造販売といった商売で富を築いており、

農家ですが苗字帯刀みょうじたいとうを許されていました。

苗字・帯刀について

鎌倉時代頃からみな苗字を持っていましたが

江戸時代の1801(享和元)年7月に「苗字帯刀の禁止令」が出され

苗字・帯刀は武士の特権とされました。


名主など特別な旧家をのぞき、平民は苗字を名乗ることを禁止されたため

農民は「○○村の権平」などというように「屋号」を使用していました。

栄一は常日頃から家業を手伝い、

算盤勘定そろばんかんじょうをこなしながら自然と商売に対する感覚を磨いていったことが

のちの人生で大変大きな武器となります

幼少期からうけた英才教育

5歳頃から学問の英才教育を受けており、「論語ろんごや「四書五経ししょごきょう、「日本外史にほんがいし」などを

いとこである「尾高惇忠おだか あつただ」から教わっていました。

敦忠は(じゅんちゅう)とも読みます。

さらには武士に憧れ、剣術にも励んでいました。

道場では尾高敦忠の弟である尾高長七郎ちょうしちろう

同じくいとこの渋沢喜作きさくらと腕を磨いていたそうです。

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どんな青年だった?

厳格な父は、栄一の己が正しいと思ったら猪突猛進する性格や、

百姓の身分を超えた考えを抱いていることを案じていたともいわれています。

栄一17歳の時のエピソード

病気の父にかわり、代官を訪ねた時のこと

栄一は代官から「500両の御用金」を申しつけられました。

他の農民たちは無条件で御用金を受け入れましたが

栄一は即答することをせず

「自分は代理の身なので父に伝えた上で返答する」と代官に伝えました。

すると代官は「農民のくせにさからうとは」と激昂しましたが

栄一は代官からの要求に釈然としなかったようです。

そのことを聞いた父、市郎右衛門はすぐに御用金を

代官の陣屋まで届けさせたのですが

このことは栄一にとってひどく屈辱的な出来事だったといわれています。

そんな事件もありながら栄一は

1858(安政5)年、18歳のときに

いとこで尾高惇忠の妹の尾高千代と結婚します。

揺れ動く国内情勢と尊王攘夷思想

江戸時代末期という激動の時代に生まれた栄一。

ここで、栄一の青年期がどんな時代背景だったかを少し振り返ります。

江戸末期の日本の情勢

  1. 1853(嘉永6)年、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官のマシュー・ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市東部)沖に来航し大騒ぎになる。
  2. 1840〜1842年に清とイギリスが争ったアヘン戦争で清が大敗したことが日本に伝わり、各地で”夷狄いてき(外国の敵)を滅す”という「攘夷じょうい思想」が広まる。
  3. 1854(嘉永7)年、日本はアメリカと「日米和親条約」を結ばされてしまい、函館港と下田港を開港する。
  4. 栄一が千代と結婚した1858(安政5)年、日本はアメリカと「日米修好通商条約」を結び開国した。
  5. 幕府が天皇の許可を得ず開国したことで尊王攘夷派そんのうじょういはは怒りが爆発。各地で倒幕運動が盛んになり、暴動や暗殺が絶えなかった。
  6. これに対して大老の井伊直弼いい なおすけは尊皇攘夷派を弾圧し、大勢処刑。このことを「安政の大獄あんせいのたいごく」という。
  7. 安政の大獄をうけて、1860(安政7)年3月3日、水戸と薩摩藩士が井伊直弼を襲撃し殺害。この事件を「桜田門外の変さくらだもんがいのへん」という。

上記の国内情勢をうけて

日本各地では尊王攘夷」という思想が大変流行していました。

栄一も自ら学ぶうちに尊王攘夷を信じてやまなくなり

自らの力で国を動かしたいという気持ちが強くなっていきます。

高崎城乗っ取り計画にいたるまで

安政の大獄、桜田門外の変を受けて

栄一は父に学問のための江戸行きを懇願しました。

無事に父から許しをいただき、

1862(文久2)年、22歳の時に江戸へ行き、

儒学者・海保漁村かいほ ぎょそんの塾生になりました。

さらに玄武館げんぶかんに入門し、北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうの剣技を磨いたそうです。

玄武館とは「江戸三大道場」のひとつで、幕末の江戸で人気が高かった剣術道場。
他に「士学館しがくかん」「練兵館れんぺいかん」がある。

この頃、道場からの帰り道に

真剣を持った人斬りに襲われている

平岡円四郎ひらおかえんしろう一橋慶喜ひとつばし よしのぶの側近)を助けたことが

のちに栄一の人生の大きな転機となります。

1863(文久3)年

尾高敦忠、従兄弟の渋沢喜作とともに

高崎城乗っ取り計画」を企てますが、

敦忠の長弟尾高長七郎の懸命な説得により決行を断念しました。

「高崎城乗っ取り計画」とは

高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのちに長州藩と連携して幕府を倒すという計画のこと。

このとき、親族に累が及ばないように

栄一は父から勘当を受けたていにしました。

尊王攘夷派の栄一が徳川慶喜に仕えることに

1863(文久3)年

栄一は、高崎城乗っ取り計画の追求から逃れるために渋沢喜作と京都にいきます。

江戸で知り合っていた平岡円四郎に京都でかくまってもらい

そこで初めて一橋慶喜ひとつばし よしのぶ(のちの徳川慶喜とくがわ よしのぶと対面しました。

平岡からの斡旋もあり、また高崎城乗っ取り計画の罪を免れるためにも栄一と喜作は

尊王攘夷派から一転し幕府の中枢を担う一橋家に仕える武士になりました。

そこで栄一は

平岡円四郎の期待に応える働きぶりを見せていきます。

徳川家で持ち前の手腕を存分に発揮する

まず栄一は

金銭的な事情から自前の兵力を持たなかった一橋家を危惧し

兵の調達を進言します。

そこで「歩兵取立御用掛ほへいとりたてごようがかり」を命じられ

備中びっちゅう(現在の岡山県西部)の一橋領へ向かいます。

そこで一橋家の兵士を

百姓の中から500人集めることに成功しました。

備中で実績をあげた栄一は

一橋家の逼迫した財政を立て直す役目を仰せつかいました。

ここで幼少期に培った持ち前の商才をいかんなく発揮します。

慶喜が15代将軍になったことで幕臣になる

慶応2年(1866年)

14代将軍 徳川家茂いえもちが逝去したことで

次期将軍として徳川慶喜に白羽の矢が立ちます。

栄一ら家臣は反対しましたが

慶喜は老中たちからの説得を断りきれずに

将軍職を引き受けてしまいます。

慶喜の将軍就任に反対した理由は

倒れかかっている徳川幕府の責任を全て慶喜に押し付けられてしまうと考えたため。
親藩から幼君をたてて、慶喜はあくまでも補佐に徹することを栄一達家臣は慶喜に打診しました。

※親藩とは‥徳川家康の直系の子孫とその分家のこと

慶喜が15代将軍になったことで栄一は幕臣になりました。

そこで栄一は軍事に関わる役職を与えられました。

パリ万博に随行しヨーロッパの最新技術を学ぶ

1867(慶応3)年

フランス・パリで行われる万博博覧会

慶喜の異母弟、徳川昭武あきたけ民部公使みんぶこうし)が行く事になり

栄一はそれに随行することになりました。

※パリ万博のあと徳川昭武がパリにて3〜5年の期間、学問のための留学をすることも決まっていました。

約2ヶ月に及ぶ船旅を経て

同年5月のパリ万国博覧会に出席しました。

パリ万博のあと、昭武一行は

挨拶まわりを兼ねてヨーロッパ外遊をしました。

このヨーロッパ外遊は栄一にとって刺激的で大変貴重な経験となのです。

ヨーロッパ外遊で学んだこと

  • 蒸気機関車スエズ運河の建設現場などの西洋の優れた技術を目の当たりにする
  • 1867年8月にはベルギー国王に謁見し、製鉄所を見学させてもらう
  • 攘夷思想に染まっていた栄一が西洋の文化を認め、自ら進んで吸収していった
  • 銀行家が軍人と対等に会話を交わしている姿に多大な衝撃を受けた

1867(慶応3)年11月後半

パリに帰着し本格的な留学が始まります。

栄一がパリ留学中に学んだこと

  • フランス人銀行家のフリュリ・エラールから、銀行や株式会社のしくみ(資本主義経済)について教わって
  • このことが後に栄一の「合本主義がっぽんしゅぎ」の発想の発端になる
  • 病院へ熱心に視察に行った

合本主義とは?

「公益を追求する」という目的を達成させるために、最も適した人材を集め、事業を推し進めるという考え方。

栄一は私益のために資本を集中させるのではなく「公益の追求」「より良い社会の実現」のために

資本や人材を合わせることの重要性を解いた。

その頃、日本では慶喜が大政奉還たいせいほうかんをし

明治維新めいじいしんが始まろうとしていました。

1868(明治元)年

大政奉還の知らせを聞き、急遽日本へ帰国することになりました。

大政奉還とは

政治を行う権利を「幕府」から「朝廷」に返すこと。

帰国後、栄一は駿府(現在の静岡県静岡市)で謹慎をしていた慶喜へ

昭武からの手紙を届けるためにむかいます。

この時、栄一は慶喜から

「これからは自分のやりたいことを思う存分やればいい」

と言われ、欧州で得た知識を人々のために役立てることを決めました。

お城ちゃん

素敵なエピソードですね。

「晴天を衝け」のセリフでは「渋沢、これからは日本の為に尽くせ!」でしたね^^

徳川慶喜役の「草なぎ剛」さん素敵でした!

まとめ

ここまでで前編終了です。

渋沢栄一の前半生がおわかりいただけたと思います。

ここから先は後編を読んでいただけると嬉しいです。

後編はこちら

【渋沢栄一】とは何をした人?日本資本主義の父、新一万円札の顔を簡単に解説(後編)

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